松林寺の歴史
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はじめに
兵庫県宝塚市安倉北にある浄土宗の総本山知恩院の末寺で、山号を華岳山といいます。
国道176号線のバイパスに面し、すぐ西側に中国自動車道の宝塚インターチェンジがあります。
また、かつての「大道」という小字が示すように、近世から西国街道の通る伊丹の大鹿村から北に分かれて安倉を通って小浜の宿を経て有馬に通ずる有馬街道に面して建っていました。
『元禄五年安倉村寺社改帳』には、藁葺であること、開基や寺歴は不明で、中興の住職長有が溯ること61年前(寛永10年(1633))に亡くなったことが記されています。
浄土宗の『蓮門精舎舊詞』には、同じく開山由緒が不明で、中興開山誓譽長有が寛永10年(1633)6月10日に亡くなったことのみが、元禄9年(1696)の記述として記されています。
『摂津志』によれば、天正6年(1578)10月から12月の荒木村重の乱により安倉は全村が焼亡し、村民は惣川奥の小屋谷に逃れたと記されています。
震災後、庫裏の跡を基礎工事のため掘り起こすと、焼け土があったそうですから、松林寺もその時焼失し、すべての記録も失われたと思われます。
その後、松林寺を復興したのが、中興開山の誓譽長有上人だと考えられます。
誓譽上人の再建した藁葺の本堂がその後どのようなったかは不明ですが、再び火事で焼失したとの伝承もあります。
享保8年(1723)に中興乗譽上人が瓦葺の本堂を再建され、阪神淡路大震災まで約280年間の永きにわたって安倉の念仏道場の役割を担ってきました。
また、明治6年初め、松林寺に、安倉・中筋・中山寺三か村の児童が通う安倉小学校が創立され、後に、中筋・中山寺の児童は新しくできた中筋小学校へ移りましたが、明治18年に国府小学校(現在の小浜小学校)ができるまで使用されました。
松林寺の歴史
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昭和43年(1968)頃の安倉
建設中の中国自動車道や国道176号バイパスが写っています。
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昭和49年(1974)頃の安倉
中国自動車道や片側2車線だけの国道176号バイパスや安倉小学校が写っています。
松林寺には新しい平屋の庫裏が写っています。 -
昭和54年(1979)頃の安倉
上池の上に中山寺方向に市道が伸びています。
国道176号バイパスは片側2車線だけです。 -
昭和60年(1985)頃の安倉
安倉北小学校と宝塚市立病院が写っています。
176号バイパスが4車線になっています。
松林寺には新庫裏が建っています。
昭和49・54・60年の空中写真は国土地理院公開の写真をもとにしています。 -
平成14年(2002)頃の安倉
阪神淡路大震災後の建て替えにより心なしか瓦屋根が減少したようにも見えます。
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昭和45年(1970)頃
約250年間続いた本堂・鐘楼・庫裡の姿。
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昭和47年(1972)頃
庫裡は老朽化のため立て直されました。
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昭和48年(1973)頃
松林寺のシンボルだった松の大木の後方に、新しい庫裡が見えます。
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平成7年(1995)
阪神淡路大震災では本堂・庫裏とも復旧不可能な被害を受けました。
しかし、檀信徒はじめ地縁の皆様のご協力を得て復興し、平成11年(1999)11月落慶することができました。
阪神淡路大震災からの復興
震災後の歴史震災後、ご本尊の阿弥陀如来像と観音・勢至両菩薩の修復を、京都の現在、慶派唯一の大仏師である松本明慶師にお願いすることができました。
師はNHKや民放のテレビの特集番組をご覧になった方はよくご存知のように、平成の大仏を作ったことでも知られる運慶・快慶の正当な後継者です。
もしかして、江戸初期慶派の名工の手によるご本尊の阿弥陀如来像と観音・勢至両菩薩が、平成になって、慶派の大仏師の手で立派に修復されたとすれば、歴史のロマンを感じずにはいられない気がいたします。
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1995年01月18日
震災直後の様子
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傾斜した本堂と倒壊した山門と鐘楼
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倒壊した鐘楼
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倒壊した山門
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天井が落ち部屋全体がゆがんだ庫裡の室内
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壁の一部が崩れ亀裂が走った本堂西側の壁。
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倒壊し散乱した本堂西側の墓地の墓石
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1995年02月06日
なかなか進まぬ復興
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倒壊を防ぐための本堂の補強
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本堂の倒壊を防ぐための補強材
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1995年03月13日
なかなか進まぬ復興
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倒壊したままの鐘楼
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1995年04月20日
本堂の解体始まる
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傾斜した本堂が倒壊すれば、前を走る国道176号線バイパスが危険ということで、宝塚市により解体工事が始まる。
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1995年04月25日
解体が進む本堂
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大量の土を載せた本葺き屋根の解体は手壊しで行われた。
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1995年05月04日
本堂跡の更地
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手前の雨水を受ける溝によって、本堂の屋根の向拝のあった位置を、うかがい知ることができる。
右手は仮本堂として残った庫裡。
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1995年08月08日
残った庫裡の仮本堂内部
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盆施餓鬼会の準備が整った様子。正面は御本尊。左奥に五如来・地蔵菩薩を安置し施餓鬼壇とし、転座して法要を勤めた。
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1997年08月18日
地鎮式
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RC造2階建て本堂の建設を松井建設(株)大阪支店に発注しました
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1997年08月30日
仮本堂と庫裡の北側三分の二を解体
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新本堂の建設と工事事務所建設のための解体ですが、工事中、倉庫として使用するため可能な限り庫裡を残せるだけ残しました。
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1997年09月03日
プレハブの仮本堂と工事事務所
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1階の北側半分が仮本堂、南側が倉庫、2階が工事事務所。
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1997年09月15日
新山門の建設予定位置
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旧山門は西側県道(旧街道)に面していましたが、新山門は倒壊した鐘楼跡に南側の国道に面して建築することとなりました。
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1997年09月21日
プレハブ仮本堂の内部
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この仮本堂で秋彼岸会・お十夜・春彼岸会を勤めました。
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1997年10月01日
建設中の様子
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後方に安倉第一会館が見える。
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1997年11月08日
建設中の様子
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本堂正面付近
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1997年12月04日
建設中の様子
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生コン打ち
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1998年01月20日
建設中の様子
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鉄骨造の小屋組
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1998年02月01日
建設中の様子
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大屋根の工事が始まる
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1998年02月03日
建設中の様子
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向拝の部分
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1998年02月22日
上棟式
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堂内の様子。法要の後、引き続き工匠の儀(導師より検知役・振幣役・介添役・槌打役に道具を渡す。)に移りました。
上棟式 工匠の儀(曳綱の儀)
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検知役が合図をすると、振幣役が「エイ、エイ、エイ」と発声すると、介添役が「オー」と掛け声をかけ、すると、参列者全員が「エイ、エイ、エイ」と掛け声をかけて紅白の綱を引く所作をする。
これを三回繰り返します。
上棟式 工匠の儀(槌打の儀)
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振幣役が「千才棟」と発声すると介添役が「オー」と発声。
槌打の介添が「トウー」と発声。
槌打が三回槌を打つ。以下、振幣役が「万才棟」・「永永棟」と発声するごとに、同様に繰り返します。
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1998年02月25日
志納瓦
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屋根の軽量化を図るため、丸と平を一体化した瓦を採用し、広く地縁の方にもご寄付を募りました。
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1998年02月28日
建設中の様子
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丸瓦には浄土宗の宗紋月影杏葉を配しました
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1998年03月09日
建設中の様子
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向拝の下、プレキャスト工法の虹梁
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1998年03月25日
建設中の様子
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瓦葺きほぼ完成
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1998年04月10日
建設中の様子
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塗装の終わった虹梁
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1998年04月17日
建設中の様子
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本堂内陣付近
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1998年04月18日
建設中の様子
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鬼瓦
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1998年04月30日
建設中の様子
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山門の屋根が完成
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1998年05月20日
建設中の様子
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本堂内陣付近、折り上げの格天井
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1998年05月27日
建設中の様子
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完成間近の格天井
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1998年07月01日
蘇鉄の移動
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総代・役員・造営委員の皆さんにより、無事、蘇鉄は東西から南北へ向きを変え、10メートルばかり移動しました。
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1998年07月19日
建設中の様子
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ほぼ完成した本堂の右奥にプレハブの仮本堂・工事事務所、さらに右に倉庫として残った庫裡が並んでいます。
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1998年08月03日
仏像仏具の搬入
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新しい本堂にあうように補修改修された宮殿の組み立て作業。
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1998年09月21日
庫裡の解体
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プレハブの仮本堂・工事事務所に続いて、残った庫裡も解体されました。
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1998年12月15日
ほぼ整った本堂の荘厳
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ようやく当初に計画していた荘厳が揃いました。
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1999年03月05日
建設中の様子
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庫裡の建設が岡田工務店により始まりました。
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1999年03月14日
建設中の様子
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上棟の日の様子。
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上棟の日の様子。
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1999年07月15日
完成した庫裡
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大きな工事がほぼ終了しました。
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1999年11月02日
落慶法要
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落慶前日の本堂の荘厳の様子。
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落慶前日の庫裡書院座敷(御内仏)
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1999年11月03日
落慶法要
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感謝状贈呈の様子。
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本堂向拝下に幕を張った珍しい写真です。
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稚児行列の幡を持った会奉行の様子。
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